ぷーやんのブログ 旅行や趣味、自分で思ったりしたこと等のひとりごと。


by puyan27

小石川後楽園

GWも終わりに近づいてきましたが、都内の大名庭園、小石川後楽園を訪れてきました。
江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、その中屋敷(のちに上屋敷となる。)として造ったもので二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。庭園の様式は池を中心にした回遊式築山泉水庭になっています。光圀は造成にあたり明の遺臣朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れ、園名も舜水の命名によるなど中国趣味豊かな庭園です。後楽園の名は、中国の笵仲淹「岳陽楼記」の「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名付けられました。
~パンフレットより引用~


e0034068_22145100.jpg小廬山

中国の名勝地「廬山」にちなみ、京都の清水寺一帯が小廬山と呼ばれている。大堰川上流の景色が京都の清水に似ていることから、藩祖頼房の求めにより寛永一七年に林羅山が「小廬山」と名付けた。現在は、オカメザサに丘の覆われた丘のことを小廬山と呼んでいる。

e0034068_2215868.jpg大堰川

京都の嵐山に下を流れる大堰川にちなんだもので、三代将軍家光がしばしば来園し、大泉水の設計と共に種々助言を与えたものと言われている。両岸には蛇篭を伏せ、神田上水の水を暗渠により引き入れ、江戸時代には清き流れで園景を引き立てていた。

e0034068_2221279.jpg西湖の堤

この石堤は中国の名勝地西湖を模して造られたもので、本園以後の大名庭園の「西湖の堤」の先駆けとなった。

e0034068_2222560.jpg涵徳亭

本園創築時代に造られた萱葺の茶室で硝子紙をもって障子としたため「硝子ノ茶屋」と呼ばれていたのを、享保年間に林信篤が涵徳亭と名付けた。現在の建物は四代目で昭和六十一年に再建した。

e0034068_2223719.jpg清水観音堂跡

京都清水寺を写した観音堂があったが、大正一二年の関東大震災で焼失した。

e0034068_2225480.jpg通天橋

京都・東山東福寺の「通天橋」にならい、大堰川の渓流に朱塗りの虹橋をかけたもので、この付近の楓の紅葉は趣が深いところである。

e0034068_223891.jpg音羽の滝

京都・清水の「音羽の滝」にならって名付けられた。もとは水車により神田上水の水を汲み上げ樋により小廬山の側に流していたが、元禄の地震のとき水流が破壊され岩組だけが残された。現在は大泉水から水を引いて滝を復元した。

e0034068_2232190.jpg得仁堂

二代光圀が建てた園内最古の建物で、光圀が感銘を受けた「伯夷叔斉」の木像を安置した。堂の名は論語の「仁を求めて仁を得たり」による。

e0034068_2233550.jpg一つ松

近江の琵琶湖を模した大泉水に対し、琵琶湖の唐崎の一つ松にちなんでいる。

e0034068_2234829.jpg白糸の滝

六代治保のときに造られた。その様子が千条の白糸を垂れているように見えるのでこの名がつけられた。

e0034068_2235913.jpg円月橋

朱舜水の設計と指導により名工「駒橋嘉兵衛」が造った。橋が水面に写る形が満月になることからこの名がつけられた。後に八代将軍吉宗が江戸城吹上の庭に造ろうとしたが遂に果たせなかったといわれている。

e0034068_2241297.jpg八卦堂跡

二代光圀七歳のとき、将軍家光に謁見したおり「文昌星」像を頂戴した。後に光圀は文学を好むようになり、文昌星を思い起こし八卦堂を造りその像を安置したという。なおこの堂は大正一二年の関東大震災で焼失した。

e0034068_2242491.jpg八つ橋と藤棚

藤の古木にして南にある三箇所はその花うす白く、北にある一箇所は八重の紫にして花房が上に向かう故に「上り藤」と言う。

e0034068_2243682.jpg田端

二代光圀が嗣子綱條の夫人に農民の苦労を教えようと作った田圃で、現在は毎年文京区内の小学生が五月に田植え、九月に稲刈りを行っている。

e0034068_2244661.jpg九八屋

江戸時代の風流な酒亭の様子を現した。この名の由来は「酒を飲むに昼は九分夜は八分にすべし」と酒飲みならず万事控えるを良しとする、との教訓による。戦災により焼失したが昭和三十四年に復元した。

e0034068_225045.jpg松原

往時は松うっそうとして空もみえざりしと伝えられる。光圀も珍重せるところにして将軍来園の際にも「これ天下の威光をもっても能はず」と感賞せられたる由なり。

e0034068_225136.jpg内庭

本園は大別すると内庭と後庭(後楽園)とに分けられる。内庭は水戸藩邸の書院の庭であって、江戸時代には「うちの御庭」などと呼ばれていた。江戸の大名屋敷がほとんど消滅した現在、書院の庭の旧態をよく残しているものとして貴重である。

e0034068_2252981.jpg蓬莱島

島は亀の形をしており、先端の大きな鏡石は、庭師徳大寺佐兵衛にちなんで「徳大寺岩」と名付けられ、弁財天を祀った祠がある。

e0034068_2254452.jpg西行堂跡

藩祖頼房の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の西行法師の木像を安置したことから西行堂と名付けられた。ここにある西行の歌碑は九代斉昭の「駐歩泉」の碑にちなみ同夫人が建てたものである。なおこの堂は戦災により焼失した。

なお、各写真の説明は現地にて書かれている説明を引用させていただきましたm(__)m。
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by puyan27 | 2007-05-05 20:52 | 建築・庭園