ぷーやんのブログ 旅行や趣味、自分で思ったりしたこと等のひとりごと。


by puyan27

カテゴリ:城( 4 )

丸亀城

国宝四城、重要文化財八城の天守閣が残っている城巡りですがしばらく止まってましたが今回、香川県丸亀市にある「丸亀城」へ行ってきました。

 亀山城または蓬莱城ともいわれ、市内の亀山に生駒氏によって築かれたものである。
 生駒親正は天正15年(1587)播州赤穂から17万6千石の領主として讃岐に入り、高松城を築き、次いで西讃の鎮めとして慶長2年(1597)から丸亀城の築城にかかり、同7年(1602)に完成したが、その後一国一城令により廃城となった。生駒家四代の後、肥前国天草郡富岡城主から寛永18年(1641)入城した山崎家治が翌年から修築に取りかかり、現代の城郭はほぼこの時代のものである。
 丸亀城の美は何と言っても石垣の美しさである。天守閣に向けて四段階に積み重ねた石垣は、「扇の勾配」とも清正流三日月勾配とも呼ばれ、天に向かって弧を描いて反りかえる様は見事で正に石の芸術品である。又、天守閣は全国の現存する木造天守12城の1つで、昭和18年に国宝、昭和26年に全国的改定により重要文化財に指定されている。
~チケット説明より引用~


e0034068_5443597.jpg大手二の門

もと南方にあった大手門を、京極氏入城後直後の寛文十年(1670)に北方のこの地へ移築した。大手の外門高麗門は切妻造りで、左右に狭間塀を持ち、内部の石垣は岩岐組みされ大手二の門とよび、右方の櫓門は大手一の門とよばれ、楼上で時報の太鼓を打っていたので太鼓門ともいわれている。両門とも同時の建造で主要部はすべて欅材を用いている。

e0034068_5445033.jpg大手枡形

もと南方にあった大手枡形を、京極氏が入城後直後の寛文十年(1670)に北方のこの地へ移築した。大手一の門、大手二の門、狭間塀とよく調和された築造で、巨石を多く用いた堅固な枡形で、甲州流軍学の標準とする五間に八間の「五八の枡形」を凌ぐ十間(18メートル)に十一間(19.8メートル)の巨大なものである。

e0034068_545166.jpg大手一の門



e0034068_5451312.jpg見返り坂

何しろ山城なものでこの程度の坂はさくさく登っていかなければなりません(^^ゞ。

e0034068_5452445.jpg三の丸月見櫓跡からの眺め

飯野山(讃岐富士)を見ることができます。それにしても印象的な形の山でした。

e0034068_5453429.jpg三の丸井戸

囲いは東西南北とも約3.5メートル、井戸の直径は約2.5メートルあり、山崎時代の絵図によると深さは三十一間(約56メートル)と記されており、石垣と同じ花崗岩を使って丈夫に築かれている。現在は空井戸となっていて、城外への抜け穴伝説のある井戸である。実際には本当に抜け穴あるんでしょうかねえ。

e0034068_5454824.jpg二の丸井戸

この井戸は直径が一間(約1.8メートル)、深さは絵図によると三十二間(約65メートル)と記され、日本一深い井戸といわれている。丸亀城で最も高いところにあり、現在も水を湛えている。また、石垣を築いた羽坂重三郎が敵に通じるのを恐れ、この井戸の底に入っている間に石を落とされて殺されたという伝説が残っている。

e0034068_5455834.jpg天守閣 外観

江戸時代初期の建築三層三重楼。屋根は南北棟の入母屋造本瓦葺軒裏丸重木型総塗籠波形軒である・・・といった説明が書かれているんだけどなんだか難しいですねえ。写真は本丸から見たものですが本来は大手一の門側から見た方が美しいです。さすがに望遠カメラでもないと撮影は厳しいです(T.T)。

e0034068_546134.jpg天守閣 一階



e0034068_5462451.jpg天守閣 二階

e0034068_5463649.jpg天守閣 三階

e0034068_5464682.jpg天守閣 三階 天井部分

なお、各写真の説明は現地にて書かれている説明を引用させていただきましたm(__)m。これで4/12ですか。まだまだ先は遠いですね~。
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by puyan27 | 2007-09-18 19:10 |

彦根城

 国宝の城めぐり第3弾は滋賀県彦根市の彦根城です。まさかこの地方はこの時期は雪が降るなんて全く知らずに向かってしまい、かなり寒さにやられました(T.T)。とはいえ素晴らしいお城でしたのでご紹介致します。
この彦根城は、慶長5年(1600)井伊直政が、関ヶ原の戦いに德川四天王の一人として戦功をあげ、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601)上野の国高崎城から佐和山城に移ってきました。
 その後直政は城を彦根山に移そうと考えましたが実現せず病死し、慶長8年(1603)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手し、元和8年(1622)に完成しました。
~彦根城説明文を引用~

e0034068_19462285.jpg埋木舎

彦根藩第13代藩主、井伊直弼公が文化3年(1846)、第12代藩主である兄直亮の嗣子になるまでの青年時代(10代~32才)を過ごした場所です。ちょうどこの日は年末年始のためお休みでした(T.T)。ちなみに最近では「武士の一分」の撮影で使われたようです。

e0034068_19463241.jpg二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)
元和8年(1622)井伊直孝の第2期築城工事の際に完成したものといわれています。左側の建造物は、明和4年(1767)火災に遭い、明和6~8年に再建されました。右側の建造物は、明治初期陸軍省により取り壊されましたが、開国の大偉業を成し遂げた直弼が桜田門外に倒れた時(1860)から数えて100年目(昭和35年)の時大老開国百年祭記念事業としてその跡地(石垣は、築城当時のもの)に再建されたものです。

e0034068_1946426.jpg馬屋(重要文化財)

藩主の馬部屋で常時十数頭が何時でもご用に役立つよう大切に保護されていた建物で、現在残されているのは彦根城のみで他に類例のない珍しいものです。L字形をなしており、全長62.2m、奥行5.9mあります。

e0034068_19465772.jpg表門橋

ここより表坂(入口受付)に通じております。現在のものは、明治初期の写真や当時の文献を参考に、3年の歳月をかけ平成16年2月に復元したものだそうです。

e0034068_19471852.jpg彦根城博物館

もともとは彦根藩主の藩庁があったところで、ここで藩の政治が行われ、また藩主が日常生活を送りました。この建物は彦根城郭の主要な建物の一つであった表御殿を復元したものです。ここもこの日は年末年始のためお休みでした(T.T)。彦根城に来たら観るのは必須の場所でしょうね。井伊家の真紅の甲冑などの武具をぜひとも観てみたかったですがこれもまたの機会に。

e0034068_19472965.jpg天秤櫓(重要文化財)その1

この櫓は羽柴秀吉が創築した長浜城大手門を移築したものと言われております。ちょうど天秤のような形をしていることからこのような名前がついたようです。この形式は我が国城郭のうち彦根城ただ一つといわれております。

e0034068_19474389.jpg天秤櫓(重要文化財)その2

嘉永7年(1854)に中央部から西方の石垣を足元から積み替えるほどの大修理があり、東半分の石垣がごぼう積みであるのに比べ、西半分は落とし積みになっているとのことですが、素人な私にはいまいちわかりにくかったです。

e0034068_19475424.jpg聴鐘庵

大老井伊直弼は禅の精神と相通ずる茶道に惹かれ、自らも「宗観」と号し、修行を続けました。大老の著「茶の湯一会集」に書かれている「一期一会」の茶道精神は有名です。この建物はこの精神をしのび、時報鐘の管理棟を改造したもので薄茶の接待をしております。

e0034068_1948366.jpg時報鐘

この鐘は12代藩主井伊直亮の弘化元年(1844)に鋳造したもので、当初鐘の丸にあった鐘の音が城下の北の隅に届かなかったことため現在の位置に移しました。現在は午前6時、9時、正午、3時、6時よ1日5回ついております。またこの鐘の音が「日本の音風景百選」に選ばれているところも興味深いところです。

e0034068_1948123.jpg太鼓門櫓(重要文化財)

本丸の表口を固める櫓門で、築城後、ここに太鼓を置いて城中に合図したところから、この名がつきました。内部では彦根城の模型及び、全国各地の城の写真が展示されております。この模型と現在の様子を比較してみると井伊直弼大老の頃の様子と違いがわかり面白いですね。

e0034068_1948215.jpg着見台(月見櫓跡)

ここには9.8m(5間)に10.6m(6間)の2重櫓がありました。佐和に出る月を見て観月雅会が催されました。また城門佐和及び京橋口の監視に当たり、城門へ到着する早出、早馬、行列の先触などをいち早く発見して役人に連絡しました。明治初年に櫓は取り壊されました。月見櫓といえば前回に行った松本城が記憶に新しいですね。現存していないのが残念です。

e0034068_19482922.jpg着見台の眺め

e0034068_19483871.jpg天守(国宝)外観

京極高次が築いた大津城の天守を移築したものと言われ、慶長11年(1606)に完成しました。石垣は「ごぼう積み」といって外見粗雑に見えますが頑丈な積み方で彦根城特有のものです。3層3階なので規模が大きいわけではないですが火灯窓が特徴があるなあと思いました。

e0034068_19484623.jpg1階 武者溜

順路的には一番最後の箇所になります。ごらんのとおり階段ものすごく急です。お年寄りや子供には堪えますね。

e0034068_1948532.jpg1階 中央

e0034068_1949182.jpg2階 天井

決してまっすぐではない木なのですがうまく梁として組まれていますね。

e0034068_1949911.jpg2階

e0034068_19491898.jpg2階 中央

e0034068_19492917.jpg3階 中央

e0034068_19494036.jpg3階 天井

こちらの梁も必見です。最上部ですが2階よりも本数が多いようです。

e0034068_19495042.jpg3階の眺め

琵琶湖が一望できます。こうして観るとこの湖はまるで海のようです。

e0034068_1950352.jpg西の丸3重櫓(重要文化財)

本櫓は西の丸にあり、浅井長政の小谷城の天守を移築したものといわれ、万治年間(1658~61年)に建てられたものです。西の丸のほうは季節及び順路的なものだと思いますが、訪れる人は少ないようです。

e0034068_19501412.jpg黒門

ここを抜けて「楽々園」「玄宮園」に向かいます。
ちょうど訪れた時期、光の祝祭 彦根城ライトアップ「ひこね夢灯路」というイベントでお城近辺はライトアップされておりました。ただ、天守までは近づくことはできないようでしたが。。。
 彦根城では2007年3月21日より「国宝・彦根城築城400年祭」が開催されるようです。このイベントの目的・趣旨って共感できますね。ぜひともこの日本文化を次世代に継承していって欲しいものです。
 国宝4城めぐり、残るは姫路城のみとなりました。このお城は世界遺産ですし、我が国で現存する最も素晴らしいものであることはわかっているので重要文化財の8城「弘前城」「丸岡城」「備中松山城」「松江城」「丸亀城」「松山城」「宇和島城」「高知城」を先に観てからのほうがよさそうな気もしてきました。
 各写真の説明は彦根城に設置されていた説明文及び配布パンフレットを引用及び参照させていただきましたm(__)m。
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by puyan27 | 2006-12-30 20:03 |

松本城

スーパーあずさにて長野県松本市へ向かいました。目的はもちろん国宝の城めぐり第2弾、松本城です。
創始
松本城は戦国時代の永正年代初めに造られた深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移すと、その家臣らは林城を取り囲むように、支城を構えて守りを固めました。深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られたのです。その後甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としました。その後天正10年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めました。

天守築造
豊臣秀吉は天正18年(1590)に小田原城に北条氏直を下し、天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。この時松本城の小笠原氏は家康に従って下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じました。
数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守三棟(天守、乾小天守、渡櫓)はじめ、御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを造り、本丸、二の丸を固め、三の丸に武士を集め、また城下町の整備をすすめ、近世城郭としての松本城の基礎を固めました。天守のと築造年代は康長の文禄2年から3年(1593~4)と考えられています。
~配布パンフレットを引用~

e0034068_14325788.jpg黒門

本丸に入る正門で、櫓門と升形からなり、本丸防衛の要です。一の門(櫓門)は昭和35年(1960)に復興し、二の門と袖塀は平成2年(1990)に復元されました。

e0034068_14331483.jpg外観(その1)

右より
乾小天守 3重4階本瓦葺
渡櫓   2重2階本瓦葺
天守   5重6階本瓦葺
辰巳附櫓 2重2階本瓦葺
月見櫓  1重地下1階附本瓦葺

e0034068_14332760.jpg乾小天守(1階)

天守の北に位置するのに、乾と呼ばれるのは、北は叛く、敗れるなどの意があり、忌み嫌われたからです。3重4階の櫓は、天守と渡櫓で連結しています。乾小天守は天守と構造が異なり、丸太柱が使用されています。1,2階の10本と3,4階の通し柱12本は丸太材です。

e0034068_14333880.jpg乾小天守(2階)

松本城天守が築造されたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦以前です。そのため武装強化が用いられている。弓や鉄砲を発射する狭間の数が多いのはその現れです。

e0034068_14335316.jpg渡櫓(2階)

天守と乾小天守が渡櫓で連結し、辰巳付櫓と月見櫓が複合しているので連結複合式天守と呼ばれます。渡櫓2階の床面と乾小天守の床面には高低差がなく平らですが、天守床面とは大きな段差があって大変接続が悪いです。

e0034068_1434669.jpg天守(1階)

1間ごとに柱が立ち天守全体の重みを支えています。食料や爆弾などの倉庫であったと思われます。周囲1間通りは、内側の床より、50cm低く、これを入側又は武者走と呼びます。また、石垣をよじ登ってくる敵に対して石を落としたり、弓や鉄砲を撃って撃退する石落も見られます。

e0034068_14341845.jpg天守(2階)

武者窓(竪格子窓)からの明かりも多く、有事には武者達の営所に当てることができました。ここには松本市出身の赤羽通重氏、か代子夫人により収集された鉄砲・装備品・文書類などが展示されています。

e0034068_1434299.jpg天守(3階)

天守2重の屋根裏に設けられているので窓が全くありません。明かりは南側千鳥破風の木連格子からわずかにはいるだけです。そのため当時は「暗闇重」と呼ばれていました。外部からの遮へいが強いので有事には「武者溜」に当てる、との説もありますが普段は倉庫でした。

e0034068_1434427.jpg天守(4階)

3階までの各階とガラリと室内の趣が異なっています。柱が少なく天井が高い上に4方から外光が入るので明るく広々とした感じを受けます。

e0034068_14345167.jpg天守(5階)

中央に3間×3間の大広間を置き、周囲は入側と4つの破風入込間という構成です。有事には幹部の居所にあてられるものと推定されます。4方に窓が開いていて6階とともに戦況を見るのに都合がよいです。

e0034068_1435153.jpg天守(6階)

周囲に3尺(90cm)通りの入側が巡る3間の一部屋となっています。無目敷居が回っているので、畳を敷くことも可能です(階段を除き京間16畳となる)。有事には最高幹部の司令塔(城主の座所)となるところです。

e0034068_14351425.jpg天守(6階) 天井

小屋梁の中央には松本城を守る神様として二十六夜神が祭られています。

e0034068_1435273.jpg天守(6階) 本丸御殿跡

このように東西南北を一望することができます。この日は天気に恵まれました。尚、本丸御殿は享保12年(1727)に焼失してしまい以後は再建されていません。

e0034068_1435554.jpg辰巳附櫓(2階)

天守の辰巳(南東)にあたり、隣接している月見櫓とともに松平直政によって寛永元年に増築されました。奥に見える窓の上方が尖った特殊なアーチ型になった窓は花頭窓といい、禅宗寺院の建築に見られる形式です。

e0034068_1436718.jpg月見櫓

北・東・南に設えてある舞良戸を外すと、3方吹き抜けになり、回りに巡らされた朱塗りの回縁や船底型の天井など書院風の造りと相まって、優雅な雰囲気を醸し出し、天守・渡櫓・乾小天守と比べ開放的で、平和な時代に造られたことがわかります。

e0034068_14361882.jpg外観(その2)

e0034068_14363267.jpg太鼓門

文禄4年(1595)頃に築かれ、門台北石垣上に太鼓楼が置かれ、時の合図、登城の合図、火急の合図等の発信源として重要な役割を果たしていました。平成11年に復元されました。
各写真の説明は松本城に設置されていた説明文及び配布パンフレットを引用及び参照させていただきましたm(__)m。国宝4城めぐり、続いては彦根城又は姫路城に行ってみたいと思います。
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by puyan27 | 2006-12-23 17:31 |

犬山城

 突然のことなのですが、日本の城めぐりをしようということになり、まずは国宝4城からということで愛知県犬山市の犬山城を観に行って来ました。
犬山城は天文6年(1537年)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました。戦国時代なので、その後何代も城主が代わりましたが、1600年の関が原の合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきました。江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成が元和4年(1618年)に城主となってからは、成瀬家が代々受け継いで明治に至りました。明治4年(1871年)9代目成瀬正肥のとき廃藩置県で廃城となり、櫓や城門など天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいました。明治24年の濃尾震災で天守閣の東南角の付櫓など、ひどく壊れましたので、それを修理する条件で再び成瀬家所有の城となりました。その後、伊勢湾台風などでも被害を受けましたが、昭和36年(1961年)から40年まで4年間をかけて解体修理を行いました。望楼型の独立天守で、高さは24メートルです。国宝に指定されている犬山城、松本城、彦根城、姫路城の4城の中でも、最も古い城であります。平成16年4月、財団法人 犬山城白帝文庫が設立され、城の所有は個人から財団法人になりました。
犬山城の歴史 説明より引用

e0034068_22351666.jpg天守閣外観

構造形式・・・独立天守閣
外観・・・3重
内部4階地下2階付
天守の建て坪・・・360.353㎡
総延面積・・・698.775㎡
石垣の高さ・・・地上5m
天守の高さ・・・石垣から19m
地上からの高さ・・・24m

e0034068_22353036.jpg大杉様

樹齢 約650年 高さ 枯れる前 約24メートル
犬山城築城の頃からの老木で、天守閣と同じくらいの高さがあり、落雷には城の身代わりに、台風の時は風避けもなったりして城を守る御神木として崇められてきました。しかし1965年頃枯れてしまいました。

e0034068_22354146.jpg付櫓(つけやぐら)(1階)

この位置は東南の隅の突出部にあたり、攻撃守備用として造られたといいます。突出部は下段に3ケ所の連子窓があり、それぞれ遠くまで見渡すことができます。広さ15.22㎡(8畳余)

e0034068_22355576.jpg納戸の間(1階)

犬山城は別名「白帝城」といいます。江戸時代の儒者荻生徂徠が李白の詩からとって命名したと伝えられます。

e0034068_2236654.jpg石落としの間(1階)

この位置は西北の隅にあたり、石落としの間といいます。石を落として侵入者を防ぐ間で石垣より外に突出しているのが特徴です。広さ7.17㎡(4畳余)

e0034068_22361782.jpg上段の間(1階)

ここは殿様が使用した部屋で上段の間といいます。床が一段と高くはられ、この部屋だけが猿頬天上(サルホホテンジョウ)が張ってあり、この城の最上の室となっています。この奥に武者隠しの間があり、殿様を守る武士が待機しておりました。

e0034068_22362836.jpg武具の間(2階)その1

中央部が武具の間で西北東の3方に武具棚があります。

e0034068_22363911.jpg武具の間(2階)その2

e0034068_22365034.jpg唐破風の間(3階)その1

ここは南北に唐破風の間を配置し、東西は千鳥破風となっています。当初天守築城当時はなく元和4年(1618年)から貞享2年(1687年)にかけて、70余年の間に成瀬城主が装飾として築城したものと伝えられております。広さ81.936㎡。

e0034068_2237361.jpg唐破風の間(3階)その2

e0034068_2237148.jpg高欄の間(4階)

廻縁からの展望は素晴らしく戦国時代の見晴台及び司令塔であったとみられます。又、対岸は美濃の国で、自然の断崖という天然の防備を持っています。広さ49.835㎡。

e0034068_22372589.jpg高欄の間(4階)廻縁の様子(その1)

e0034068_22373731.jpg高欄の間(4階)廻縁の様子(その2)

各写真の説明は犬山城に設置されていた説明文及び公式HPの説明文を引用させていただきましたm(__)m。やっぱり現存する天守閣ってすばらしいですね(^ヘ^)v。
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by puyan27 | 2006-12-17 22:30 |