ぷーやんのブログ 旅行や趣味、自分で思ったりしたこと等のひとりごと。


by puyan27

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後楽園

日本三名園のうち金沢の「兼六園」、水戸の「偕楽園」は既に行っておりましたが、岡山の「後楽園」だけはまだ行ったことがありませんでした。今回それがやっと実現しました\(^O^)/。

 岡山後楽園は、岡山藩主池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)には一応の完成を見ました。その後も、藩主の好みで手が加えられましたが、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられてきました。
 また、江戸時代の絵図や池田家の記録、文物が数多く残され、歴史的な変遷を知ることのできる、地方では稀な大名庭園となっています。
 後楽園は、かつて藩主の静養の場、賓客の場として使われましたが、日を定めて藩内の人々にも観覧が許されていました。明治17年(1884)に岡山県に譲渡され、一般公開されていました。昭和9年(1934)の水害、昭和20年の戦災では大きな被害を被りましたが、江戸時代の絵図に基づいて復旧を行いました。昭和27年には文化財保護法による「特別名勝」に指定され、後世に伝える歴史的文化遺産として維持管理にあたっています。
~パンフレットより引用~


e0034068_1155695.jpg水源

ここから園内に流れ出た一筋の水路は曲水となり、池や滝となって優れた景観を作り、旭川に戻っていきます。昔は旭川の約4キロ上流から対岸までひいた後楽園用水を利用していましたが、今は伏流水を汲み上げています。

e0034068_116944.jpg観騎亭

藩主が家臣の乗馬の技を見るための建物で、馬上側にも窓が開いています。戦災を免れ、往時の姿を今に伝えています。馬上の長さは約180メートルで、年若い藩主たちはここで乗馬の稽古に励みました。

e0034068_1162111.jpg寒翠細響軒

文化12年に当時の藩学校教授万波醒廬が背後の松林の緑と前面に広がる沢の池の清らかな水の趣にちなんで名付けました。ここからは城と庭園が一体となった雄大な景色を眺めることができます。

e0034068_1163374.jpg寒翠細響軒付近からの眺め



e0034068_1164565.jpg五三次腰掛茶屋

幕末から明治時代初期にできた建物で、東海道五三次を描いた扁額が掲げられていたことから、この名が付いたといわれています。池に面した連子窓を通して見る城や唯心山の景色には格別の趣があります。

e0034068_1165596.jpg次眼堂

池田綱政が元禄十年に池田家と領民の繁栄を願って建立し、観音像を祀りました。今は空堂となっています。境内には、花崗岩を三十六個に割って組み上げた烏帽子岩、門と仁王像、板張の腰掛などが残っています。

e0034068_117689.jpg沢の池

園内中央にある池で、左から島茶屋のある中の島、釣殿のある御野島、白砂青松が美しい砂利島があります。中の島と御野島の間には、かつての上道郡と御野郡の郡境があり、今でも石標がそのなごりを伝えています。

e0034068_1171623.jpg茶畑

築庭当時からこの位置にあり、背景のゆるやかな曲線を描く土手山と調和しています。江戸時代には、ここで作った葉茶は、藩主が普段に飲むお茶として使われました。毎年五月の第三日曜日には茶摘み祭を行っています。

e0034068_1172878.jpg新殿

幕末頃にできた建物で、もとは新御殿と呼ばれていましたが、明治時代から新殿と呼ばれるようになりました。銅板葺で、高床となった十畳の座敷からは、園内南西の景色を広々と眺めることができます。

e0034068_1173814.jpg花交の池



e0034068_1175464.jpg流店

中央に水路を通し、色彩に富んだ奇石六個を配した全国的にも珍しい建物です。藩主の庭廻りや賓客の接待などで、休憩所として使われました。戦災を免れた建物の一つで、簡素なたたずまいを今に伝えています。

e0034068_118583.jpg流店の内部

説明にもあったとおり、こんな建物見たことないです。夏なんかは涼しげでよいですね。

e0034068_118185.jpg唯心山

唯心山は池田綱政の子、継政の時に築かれ、平面的だった庭園が立体的な景観へと変化しました。山腹には唯心堂があり、斜面には石組に合わせて、ツツジやサツキが植えられ、季節には紅白の花で彩られます。

e0034068_1182873.jpg唯心山からの眺め



e0034068_1183919.jpg井田

昔は園内に広く田畑が作られていましたが、今は井田だけがその名残を伝えています。井田とは中国周時代の田租法で、本園では幕末に田畑の一部を井田の形に作りました。毎年七月の第一日曜日には、お田植え祭を行っています。

e0034068_1184860.jpg花菖蒲畑・八橋

六月上旬には白や紫などの見事な花を咲かせ、梅雨の季節に趣があります。曲水に板を渡した八橋のそばには杜若があります。伊勢物語の「東下り」の段にちなんだ、風雅な情景となっています。

e0034068_1185942.jpg蘇鉄畑

蘇鉄は桃山時代から異国情緒豊かな庭園樹として珍重されました。本園では築庭当時から取り入れ、明治時代中期になって新たに本数を増やし、今ではかつての約二倍の広さになっています。

e0034068_1191464.jpg廉池軒

戦災を免れた数少ない建物の一つで、池に架かる石橋や対岸の小島なども、往時の姿を今に伝えています。この建物からは沢の段差など、起伏に富んだ景観を眺めることができます。

e0034068_1192539.jpg御舟入跡

藩主が城から船で渡ってきたときの船着場の跡で藩主が入る御成御門がありました。大正時代に外苑散歩道をつけたときに入口の大部分を閉じ、今は水が入ることはありません。竹林に囲まれた中に、その名残を伝えています。

e0034068_1194162.jpg茂松庵

築庭当時、このあたりは山桜や楓、松で彩られた林で、建物は花葉軒と呼ばれていました。歴代藩主は、ここで茶の湯を楽しみました。明治時代になって茂松庵と名が変わり、戦災で焼失後、園内で最初に復元されました。

e0034068_1195670.jpg大立石

巨大な花崗岩を九十数個に割り、ものと形に組み上げたもので、築庭にあたり池田綱政が運ばせました。大名庭園ならではの豪快さと石の加工技術の高さがうかがえます。本園には石の割り方がわかる木型も残っています。

e0034068_12088.jpg能舞台・栄唱の間

能舞台の周囲の座敷は、能の見所や接待の場として使われました。築庭した池田綱政は、家臣や領民にも能を見せました。次の藩主継政の時に改築され、戦災で焼失後、その間取りが復元されました。

e0034068_1202099.jpg花葉の池

この池には、大輪の白い花を咲かせる蓮の「一天四海」(通称・大名蓮)が夏に見頃となります。池には、園内の曲水と沢の池から滝の石組の中に巧みに導かれた水が美しく流れ落ちてきます。

e0034068_1203138.jpg延養亭

藩主の居間で、園内で最も重要な建物でしたが、戦災で焼失し、昭和三十五年に当時第一級の木材と技術で築庭当時の間取りに復元されました。園内外の景勝が一望できるように作られており、歴代藩主もここから眺めました。現在もこの景観の保全に努めています。

e0034068_1204695.jpg延養亭からの眺め



なお、各写真の説明は現地にて書かれている説明を引用させていただきましたm(__)m。
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by puyan27 | 2007-09-20 21:07 | 建築・庭園

丸亀うちわ

丸亀市といえば何といっても伝統工芸品のうちわが有名であり、今日のうちわも生産の盛んなところです。伝統工芸品は大好きであり、うちわについては前々から素晴らしき一品を手に入れたいと思っていたところです(夏は終わってしまいましたが・・・)。

e0034068_233285.jpgうちわの港ミュージアム

うちわの実演や全国のうちわの説明、展示がされております。

e0034068_2331364.jpg展示してあったうちわ

海外から63人(23カ国)、国内から20人の著名なグラフィックデザイナーがデザインしたうちわでFUNFAN 2007という企画だそうです。伝統工芸と現代のグラフィックのコラボなんて面白い企画ですね。。

e0034068_2332546.jpg購入したうちわ

ミュージアムで2本のうちわを購入しました。茂木団扇さんで作製された渋うちわです。とてもシンプルで美しいうちわです。近頃は職人さんが減り、中国製のうちわの骨が多いのだそうな。伝統工芸の伝承者が減っていっているという現実なんでしょうね。なんとも寂しいことです(T.T)。
余談ですがネットでうちわを探していたところ「来民渋うちわ 柿いろ」というHPを見つけました。熊本県のうちわなんですがなかなかよさそうですね~。
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by puyan27 | 2007-09-18 23:01 | その他

丸亀城

国宝四城、重要文化財八城の天守閣が残っている城巡りですがしばらく止まってましたが今回、香川県丸亀市にある「丸亀城」へ行ってきました。

 亀山城または蓬莱城ともいわれ、市内の亀山に生駒氏によって築かれたものである。
 生駒親正は天正15年(1587)播州赤穂から17万6千石の領主として讃岐に入り、高松城を築き、次いで西讃の鎮めとして慶長2年(1597)から丸亀城の築城にかかり、同7年(1602)に完成したが、その後一国一城令により廃城となった。生駒家四代の後、肥前国天草郡富岡城主から寛永18年(1641)入城した山崎家治が翌年から修築に取りかかり、現代の城郭はほぼこの時代のものである。
 丸亀城の美は何と言っても石垣の美しさである。天守閣に向けて四段階に積み重ねた石垣は、「扇の勾配」とも清正流三日月勾配とも呼ばれ、天に向かって弧を描いて反りかえる様は見事で正に石の芸術品である。又、天守閣は全国の現存する木造天守12城の1つで、昭和18年に国宝、昭和26年に全国的改定により重要文化財に指定されている。
~チケット説明より引用~


e0034068_5443597.jpg大手二の門

もと南方にあった大手門を、京極氏入城後直後の寛文十年(1670)に北方のこの地へ移築した。大手の外門高麗門は切妻造りで、左右に狭間塀を持ち、内部の石垣は岩岐組みされ大手二の門とよび、右方の櫓門は大手一の門とよばれ、楼上で時報の太鼓を打っていたので太鼓門ともいわれている。両門とも同時の建造で主要部はすべて欅材を用いている。

e0034068_5445033.jpg大手枡形

もと南方にあった大手枡形を、京極氏が入城後直後の寛文十年(1670)に北方のこの地へ移築した。大手一の門、大手二の門、狭間塀とよく調和された築造で、巨石を多く用いた堅固な枡形で、甲州流軍学の標準とする五間に八間の「五八の枡形」を凌ぐ十間(18メートル)に十一間(19.8メートル)の巨大なものである。

e0034068_545166.jpg大手一の門



e0034068_5451312.jpg見返り坂

何しろ山城なものでこの程度の坂はさくさく登っていかなければなりません(^^ゞ。

e0034068_5452445.jpg三の丸月見櫓跡からの眺め

飯野山(讃岐富士)を見ることができます。それにしても印象的な形の山でした。

e0034068_5453429.jpg三の丸井戸

囲いは東西南北とも約3.5メートル、井戸の直径は約2.5メートルあり、山崎時代の絵図によると深さは三十一間(約56メートル)と記されており、石垣と同じ花崗岩を使って丈夫に築かれている。現在は空井戸となっていて、城外への抜け穴伝説のある井戸である。実際には本当に抜け穴あるんでしょうかねえ。

e0034068_5454824.jpg二の丸井戸

この井戸は直径が一間(約1.8メートル)、深さは絵図によると三十二間(約65メートル)と記され、日本一深い井戸といわれている。丸亀城で最も高いところにあり、現在も水を湛えている。また、石垣を築いた羽坂重三郎が敵に通じるのを恐れ、この井戸の底に入っている間に石を落とされて殺されたという伝説が残っている。

e0034068_5455834.jpg天守閣 外観

江戸時代初期の建築三層三重楼。屋根は南北棟の入母屋造本瓦葺軒裏丸重木型総塗籠波形軒である・・・といった説明が書かれているんだけどなんだか難しいですねえ。写真は本丸から見たものですが本来は大手一の門側から見た方が美しいです。さすがに望遠カメラでもないと撮影は厳しいです(T.T)。

e0034068_546134.jpg天守閣 一階



e0034068_5462451.jpg天守閣 二階

e0034068_5463649.jpg天守閣 三階

e0034068_5464682.jpg天守閣 三階 天井部分

なお、各写真の説明は現地にて書かれている説明を引用させていただきましたm(__)m。これで4/12ですか。まだまだ先は遠いですね~。
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by puyan27 | 2007-09-18 19:10 |

栗林公園

9月に入り、連休がとれたので讃岐うどん食いだおれに香川県高松市へ行って来ました。ここへ来たら絶対に欠かせない観光名所が栗林公園です。映画「春の雪」でも使われていました。もっぱら庭園好きな私には絶対にはずせない場所ではあったのですが。

本園の起こりは、元亀、天正の頃から当地の豪族であった佐藤氏によって、西南地区(小普陀付近)に築庭されたのに始まるといわれ、その後、寛永年間(1625年頃)讃岐領主生駒高俊公によって、南湖一帯が造園され、寛永19年(1642年)入封した松平頼重公(水戸光圀公の兄君)に引き継がれた。以来5代松平頼恭公に至る100年余の間、歴代の藩主が修築を重ねて延享2年(1745年)に完成されたもので、明治維新に至るまで松平家11代228年間にわたり、下屋敷として使用された。明治4年(1871年)高松藩が廃され、新政府の所用となったが、明治8年(1875年)3月16日、県立公園として一般公開され、現代に至っている。
~パンフレットより引用~


e0034068_17595462.jpgお手植松

前に並んでいる手入れをしている背丈の高い5本の松は、次の方々がご来園賜ったときに記念してお手植えになられた松です。昭和天皇が大正3年皇太子殿下のときお手植えになった黒松がありましたが落雷のため平成17年2月枯死したそうな。

e0034068_180891.jpg鶴亀松(別名 百石松)

110個の石を組み合わせ亀を形どった岩組の背中に鶴が舞う姿をした黒松を配したものであり、園内でも最も美しい姿をした松である。

e0034068_1802512.jpg屏風松と箱松

北側の背丈の高い松並を屏風松という。絡み合うように屈折して伸びたその見事な枝振りはまさに圧巻。南側に並ぶ箱松は、その名の通り箱のかたちを装った松。長い年月の手入れのたまもので、樹芸の粋を極めたこの箱松は、他に見られない本園ならではの景観をつくっている。

e0034068_1803815.jpg梅林橋

別名「赤橋」と呼ばれ、緑一色の湖景に一点朱色が鮮やかに映え、付近庭景に対する見事な引締め役となっている。

e0034068_1805464.jpg掬月亭

この建物は、江戸初期の頃(1640年頃)に建てられた廻遊式大名庭園の中心的建物でありう、歴代藩主が大茶屋と呼び最も愛用した建物である。1745年に、松平5代藩主頼恭が、中国の詩人干良史の詩の一句「水を掬すれば月手にあり」からとって、掬月亭と命名したものである。

e0034068_181798.jpg涵翠池

掬月亭西の池、涵翠池は、翠(みどり)を涵(ひた)すという意で、石組みの素晴らしい中島の瑶島(ようとう)の木々だけでなく、背景となっている紫雲山の自然を含めた意図で命名したもの。

e0034068_1813120.jpg睡竜潭と慈航嶼

西湖の南端にあたるこの池泉を「睡竜潭」といい、その中島を「慈航嶼」という。この中島には2つの橋が架けられている。手前の橋を「津筏梁」といい、奥の橋を「到岸梁」という。津筏梁の両側にはカキツバタがあり、5月には可憐な花を咲かせる。

e0034068_1814726.jpg掬月亭 初莚観(その1)

天井が総和紙貼りになっており、光を取り入れられるようになっています。和紙を通すので柔らかい光が入ってきます。建築家の村野藤吾氏がここを参考に新高輪プリンスホテル「恵庵」、帝国ホテル「東光庵」にてアレンジして取り入れたといった内容の資料が展示されておりました。

e0034068_182054.jpg掬月亭 初莚観(その2)

黒漆塗り井桁菱格子に紋紗を貼って障子にしているようです。障子が開いていればこの格子ごごしに庭園を観られたのですが残念。ここにも建築家の村野藤吾氏がここを参考になだ万山茶花荘にてアレンジして取り入れたといった内容の資料が展示されておりました。

e0034068_1821313.jpg掬月亭 掬月



e0034068_1822654.jpg掬月亭 掬月からの眺め

ここからの庭園の眺めは格別です。襖に書かれた庭園風景のようです。素晴らしい(^○^)。

e0034068_1823772.jpg掬月亭 茶室



e0034068_1825057.jpg吹上げ

石の間から吹き上げるように噴き出る噴泉の吹上げは、本園の東南端に位置する当園の水源地であり、ここで曲水の宴がおこなわれたといわれている。

e0034068_183239.jpg飛来峰(古富士)からの眺め

明治43年文部省発行 高等小学読本の文章中「風致の美をもつて世に間ゆるは水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園にして之を日本の三公園と称す。然れども高松の栗林公園は木石の雅趣却って此の三公園に優れり。」と記され、ここから南湖を望む景観の写真が掲載された。この築山は、中国杭州武林山の名勝から得た命名である。

e0034068_1831566.jpg芙蓉峰からの眺め

梅林橋のあたりから見ると富士山の形をしているので富士の別名である「芙蓉」の名がついたとされている。芙蓉峰から望む北湖は、紫雲山を背景として、右に前嶼、左に後嶼、その求心点には紅の橋である梅林橋という美しさ。また、右には箱松、屏風松が重なるように見え、景観をさらに厚く演出している。


なお、各写真の説明は現地にて書かれている説明を引用させていただきましたm(__)m。
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by puyan27 | 2007-09-17 17:58 | 建築・庭園